Geological Survey of Californiaのシエラネバダ調査:1863-1864年

1860年、カリフォルニア州政府は岩石、化石、土壌、鉱物資源、植性などの収集や、地図の作成を含む地質調査を目的とした組織 Geological Survey of Californiaを設立し、 Yale大学出身のJosiah Dwight Whitneyをリーダーとし、William H. Brewer、William Ashburner、Charles Hoffmannといったメンバー[1]らが選ばれました。 隊は1860年末から活動を開始しましたが、最初の2年は海岸沿いやサクラメント川沿いでの活動を中心としたもので、シエラネバダの調査を始めたのは、1863年の春も終わる頃でした。 以下はBrewerの日記を中心に、隊のシエラネバダにおけるで活動をまとめたものです。



1863年


地図:California Geological Survey、1863年夏のヨセミテ調査ルート


1863年5月、南カリフォルニアのTejon Pass方面(I-5、LAの北50マイル)での調査を終えたBrewerとHoffmannは、San Joaquin Valleyを北上し、Murphyの町(CA4沿い)でWhitneyと合流します。 一行は近くにある発見されて10年ほどのCalaveras Grove[2]に行き、セコイアの巨木を観察します。このときWhitneyは、倒れていたセコイアの木の年輪を1225まで数えています。 Brewerは、伝わる話によると大きな木々は倒れ、そのなかで”Father of the Forest”と呼ばれたものは、直径116ft.で、高さは400ft.あったと書いています。Murphyの町に戻った後は、金堀でにぎわう Columbia、Sonoraの町を経由し、いよいよヨセミテに向かいます。 途中立ち寄ったBig Oak Flatも金鉱で賑わう小さな村で、その名の由来は、昔生えていた直径10ft.の樫(Oak)の木にあると書きとめています。 翌11日には、村の北にある近くの小高い丘から、雪を被ったシエラネバダ、Table Mountain(120号が108号から分岐する付近)、そしてSan Joaquin Valleyの西側の山々を見ています。 14日にはBig Oak Flatを出発し南方へ向かい、Merced Riverの北俣沿いでキャンプし、すぐ傍にある石灰岩質のBower's Caveを見学します。 いくつもの洞穴をこれまで見てきたBrewerですが、これがいちばん綺麗であると感想を述べています。15日は Coultervilleトレイルを使いBull Creek、Black's Ranch、Deer Flatに沿って進み、Crane Flatに到着し、 翌日にはTuolumne Groveの見学に出かけます。1週間前にCalaveras Groveを訪れたばかりだったためか、スケールの小さいここにはあまり感動していません。 この先のトレイルはかなり荒れ始めます。いくつかの谷や尾根を越えて、突然渓谷が視界に入り始めました。そしてこの日は、Bridal Veil Fallを越えたTu-tuc-a-nu-la(El Capitan)の麓にキャンプをしました。

[Geologyの挿絵より:Yosemite Valley (Fig. 62)]


次の日はMerced Riverを対岸(南側)に渡り、Yosemite Fallsが真正面に見えるところまで行き、ベースキャンプを設営します。隊はこれから一週間ほどかけて、渓谷内の調査・測量を行うことになります。 Brewerは、個々の滝や岩壁の形状や高度についての、詳細な記述を中心とした渓谷の概要を書きまとめています。また余談として、キャンプ地の付近のMerced川の流れが強く、渡ろうとしたら馬の足がさらわれて川に落ちたこと、 ヨセミテ滝を測量しようとして、Hoffmannと共に高度差 3,000ft.もある横の谷(現在のトレイルのある谷)を6時間掛けて登り、そこからみる景色に感嘆したこと、この頃渓谷にはたった12人ほどの観光客しかいなかったことについて触れています。 ところで、California Geological Surveyの最初の報告書”Geology I”は1865年に作成されますが、その中でWhitneyは学術的な話題をそれ、ヨセミテ渓谷について2点ほど面白いことを書きとめています。 一つは、渓谷へのアプローチのとり方です。最初に感動的な渓谷の全容を見たいのならば、Mariposaトレイルを使い、Inspiration Pointから渓谷にルートをとるべきであること、 渓谷めぐりをして個々の景観の様子を知ったあと、最後に全容を見て感動するならば、 Coultervilleトレイルから入り、Mariposaトレイルで渓谷を出るルートを進めています[3]。本人はそう書いてはいないものの、 Coultervilleのトレイルは今ひとつと言った感じが伺えます。もう一つは、渓谷を訪れる最適の時期について触れ、5?7月の水の多い満月の頃に訪れることを勧めています。水のない季節に来て大岩壁を見て感動し、 水がなくて少し残念だったと思うのは大間違いで、最も感動する状況を逃していると強調しています。

[Geologyの挿絵より:The Obelisk Group - from Porcupine Flat (PLATE IV)]


6月23日、隊はいよいよヨセミテ渓谷を出発します。いったんColutervilleトレイルを西に戻り、途中でMonoトレイルに入り、この日は Porcupine Flatまで進みます。 ここは標高8,850ft.のロッジポールパインの林に囲まれた小さな平地で、蚊がかなり多いと記しています。しかし、シエラの大展望があり、Whitneyはそれらを14,000ft.級の山々と思い込みかなり興奮したようです。 翌日は西側の尾根をたどり、標高 11,000ft.ほどの山に初登頂します。これはメンバーの名前をとってMt. Hoffmannと名づけられました。周りには標高12,000ft.を越える山々が50ほど見られ、それらのほとんどは雪を抱いたり、 急峻な岩壁を持つ花崗岩の岩峰であるとBrewerは記します。そしてスイスアルプスほどに綺麗ではないが、その広大な荒涼さが特徴であろうとしつつも、”The scene is one to be remembered for a lifetime” とその印象深さは一生ものであると書き残しています。6月25日にはTenaya Lake湖畔にキャンプをし、26日にはTuolumne MeadowsのSoda Springsに入ります。 この日近くでトレイルの探査をするために近くでキャンプしていたパーティから、南軍がペンシルベニア州に侵入したことを知らされ、一行はかなり落ち込んだと記しています[4]。ともかくもこの日の夜は快晴で、月明かりに照らされ周辺の山々が美しい風景を作り出していました。

[Geologyの挿絵より:Cathedral Peak Group - Upper Tuolumne Valley (PLATE VI)]


27日にはキャンプをMono Passから3マイル付近に移し、翌28日、調子の優れないWhitneyを残しHoffmannとBrewerはガレ岩、氷、雪を越えて標高 13,000ft.強の山に登り、Mt. Hoffmann以上の大展望を得ることが出来ました。 この山はアメリカの地質学者の名前をとって、Mt. Danaと命名されます。キャンプに戻ってきた二人の話しを聞いたWhitneyは自分も登ると決心し、翌日三人は、再びMt. Danaの頂を目指します。 Hoffmannは別の峠[4]を観察し、其処にもトレイルが作れる可能性を示唆します[5]。Berwerは、Monoトレイルが、すでにシエラの東側で見つかっていた鉱山への補給のため、パックトレインが週一度の頻度で、山を越えていることを記しています。 また周辺の山々には昔あったであろう氷河の形跡がいたるところにあることを書き記しています[6]。 30日には再びSoda Springsに戻り、翌7月1日にはWhitneyとパッカーのJohnはBig Oak Flatへ向けて戻ります。一方HoffmannとBrewerの二人はTuolumne riverの上流に探査に向かいます。 谷に道はなかったものの、この日は10.5マイルほど進み、平らな谷の行き止まりでキャンプをします。

[Geologyの挿絵より:Mount Lyell and the source of the Tuolumne River (PLATE VII)]


奥には13,000ft.を越える雪を抱いた花崗岩の山が、青空を背景に聳えたっていました。 ”It was most picturesque, wild, and grand. And what an experience!…” Brewerはかなりの量を割いて、そのキャンプ地一帯の美しさを書きとめています。 7月2日は早朝に行動を開始し、奥に見える最高峰を登りに出かけます。樹林帯をぬけ、昔氷河によって磨き上げられた岩の斜面を越え、あと高度差にして 1,000ft.までに迫ります。そこからの斜面の雪は場所によっては柔らかく、2-3ftも潜り始めます。 出発して7時間後、二人は頂上直下125? 150ft.に達するも突破できず、其処であきらめます。高度は13,000ft.付近を示していました。この山は、英国の地質学者の名を取り、Mt. Lyellと命名されます。

[Geologyの挿絵より:Summit of Mount Lyell (Fig. 73)]


翌日は朝遅くまで休んでから出発、ゆっくりとSoda Springsへ戻ってきます。7月4日、今度はTuolumne River沿いを数マイルほど下り、一帯の測量をします。 Brewerは南に聳えるUnicornとCathedral Peakの二つの尖峰が特にすばらしく、まさに後者は巨大なCathedral(聖堂)のようだと書いています。 あくる日は、二人はTuolumne Mewadowsの北にある岩峰[7]で最後の測量を済ませ、7日にはMono Lakeへと下りヨセミテ渓谷を出てから2週間にわたるテントなしでのヨセミテ・ハイシエラの駆け足の調査を終えました。

[Geologyの挿絵より: Glacier Polished Surface in Tuolumne Valley (Fig. 72)]





1864年




[南シエラ横断ルート: ▲はMt. Goddard]


1864年5月24日、Brewer、Hoffmann、King、Gardner、そしてCotterらはSan Franciscoを出発し、Visallia経由で6月10日にThomas' Mill(現Kings Canyon NPのGeneral Grant Groveのすぐ西側)に到着しました。 一行は、手配中の荷物が届くのを待つ間、周辺に生えるセコイアの調査を行います。木々の太さや高さは、巻尺や三角測量を使ってかなり正確に測られました。 いちばん大きなセコイアは、根元付近の円周が106ft、.高さ276ft.もあるものでした。また、火事で焼け中空となったセコイアの倒木があり、それは馬に乗ったまま、20メートルほど奥に入ることが出来るほどの巨大なものでした。 Brewerはすでに幾本かの小さなセコイアが伐採され、フェンスの材料にされていること、数年のうちにまた幾本が切られるかもしれないと書きとめています。偵察のために近くの山に登ると、東には、雪を抱くシエラネバダの険しい山々が見え、 Brewerはその荒々しさはいまだかつて見たことが無く、はたしてたどり着けるであろうかと、心配しています。荷物が届き、6月17日にはいよいよ東へ向けて出発します。進路はおおむねKaweahとKings水系を分ける分水嶺に沿うもので、 途中には数百本ものセコイアが見られます。Big Meadowsで数泊した後、6月28日は分水嶺上に聳える11,000ft.の山に登り、それをMt. Sillmanと命名します。その後Kings水系側の谷に下り、 Roaring Riverを越え7月1日には、とある沢にキャンプを設営します。翌日BrewerとHoffmannは、沢の奥に聳えるピラミッド状の山(Mt. Brewerと命名)に登り、13,000ft.級の山々の連なるシエラネバダの主稜がさらに東にあることを発見します。

[Mt. Brewerより:Palisade山群(左側の山々)から、Split Mountain、Mt. Pinchot、Mt. Baxter、Black Mountain、Glen Pass(右端)]

[Mt. Brewerより:Glen Pass(中央)、Kiasarge Pass、University Peak]

[Mt. Brewerより:Mt. Bradley、Mt. Stanford、Mt. Williamson、Mt. Tyndall(綺麗な三角形の山)]

[Mt. WIlliamson、Mt. Tyndall、Mt. Russell、Mt. Whitney]

[Mt. Brewerより:Tripple Divide方面]


戻ってきたBrewerとHoffmannの話を聞いたKingとCotterは、その一つの山(Mt. Tyndallと命名)を登りに出かけ、無事初登頂を成し遂げました。 5日後二人が戻ってくると一行はキャンプ地を引き払い、エスコートのためにVisalliaからやってきた兵士たちの待つBig Meadowsへと戻ります。7月12日、Brewerは痛む歯の治療のため、Kingに付き添われ一時Visalliaへと山を降ります。 其処からKingは別行動をとり、Mt. Whitneyへの登頂を試みるものの失敗、その後単独でWawonaへ戻り、Brewerらの帰りを待つことになります。 治療を終え、16日にThomas' Millに戻ったBrewerは、待っていた隊に合流し、翌日Kings渓谷へと向かいます。 途中Owens Valleyからトレイルを作りながらKearsarge Passを越えてきた採鉱者らに出会い、シエラを越えるルートが開かれたことを知ります。 18日に3000ft.の急斜面を下り渓谷の底に降り立ったBrewerは、川(South Fork Kings River)に鱒があふれんばかりに泳いでいたと記録しています。 次の日は渓谷を上流に10マイルほど進み、川が二股に分かれるメドウ地帯にキャンプ地を定めました。Brewerはこの大渓谷の印象を、”Next to Yosemite, this is the grandest canyon I have ever seen. It much resembles Yosemite and almost rivals it”と、そのヨセミテに次ぐ大渓谷で、様相も似ていると表現します。

[Lookout Peakから見るKings Canyon。奥はMt. Clarence King(左)とMt Gardiner(中央)]


Hoffmann、Gardner、Brewerらが渓谷の南側を調査する間、兵士たちは、たった5マイルで4,000ft.も高度を稼ぐ急峻な北側の斜面を偵察し、Kings渓谷を抜け出すことが可能と思われるルートを発見します。 一行はそれを辿り峠を越えて、次の測量地点として定めたMr. Goddardへと向かうべく、北側の渓谷Middle Fork Kings Canyonへの下降ルートを探し求めます。

[Granite PassよりMt. Goddard(左側)]


しかし、その急な斜面に荷物を持ったパックが通過が出来るルートは見つけることは出来ず、Kearsarge Passからのルートを使い、ひとたびシエラを東に越えて、北側から回りこみMt. Godderedを目指すことにします。 Kings渓谷に戻った一行は、26日にBubbs Creek沿いのトレイルを辿り始めます。最初の1,500ftの斜面はかなり急で、所によっては馬やミュールを引っ張りあげなければなりませんでした。 苦労をしながらこの日はBubbs Creek、Charlot Creek沿いに11マイルほど進み、翌日はKearsarge Passを越え、28日には灼熱のOwens Valley(Independence)に下りました。




一行は、Palisade(隊が命名)山群をはじめとする14,000〜13,000ft.級のシエラネバダの山々を西に望みつつ、Owens Valleyを北上します。 この間Brewerは、植物学が専門だけあって、Owens Valleyの植生についてきめ細かい観察を残しています。 8月1日、隊は進路を西に変え、Rock Creekを辿り、8,000ft付近でキャンプをします。そして翌日、山陰の小さな谷を上り、雪と岩、そして砂に覆われた標高12,000ftの峠(Mono Pass)でシエラネバダの主稜線を越え、 San Joaquin水系(Mono Creek)へと入ります。近くの尾根で一帯の偵察をした後、4日には谷を18マイルほど下り、Vermilion Valley(現在のLake Thomas A Edison付近)に到着しました。 此処にベースキャンプを定め、隊は二つに分かれ、4人の兵士たちはシエラ西麓のFort Miller(現在はMillerton Lakeの湖底)へと食料調達に、残ったBrewerらは南側(Kings水系)からのアプローチに失敗したMt. Goddardを目指します。 馬で進んだBrewerたちは、9日標高10,000ft.、目指す山まであと7マイル付近と思われるところまで達します。 翌朝は夜明けと共に徒歩で出発、標高11,000ft程度の岩尾根を乗り越えていきました(Le Conte Divideに沿って進んだと考えられています)。 7番目の尾根を越えたときに見たのは、さらに6マイルも先に聳えるMt. Goddardで、しかも二つの深い渓谷が間を隔てていました。すでに行動時間は9時間を越えており、HoffmannとBrewerはそこで断念し、引き返すことにします。 Cotterと兵士のSprattはあきらめず、さらに進み続けましたが、ルートが見つけられず頂上まで300ft.を残したところで引き返すことになりました。そして夜通し歩き続け、翌日の午後、出発してから36時間をかけて、食べ物も切らし、馬を残したキャンプ地へと戻ってきました。 ベースキャンプに戻り、数日間休養した後の8月15日、今度はSan Joaquin水系の北部探査に向けて隊は進みます。しかし以前から不調を訴えていたHoffmannの足の状況が悪化するにいたり、8月21日、調査を打ち切ることにします。 そして8月23日、Clark's Ranch(ワオナにあったGalen Clarkの経営する宿)に到着し、Olmsted、Ashburner、3週間前にMt. Whitneyの試登(失敗)を終えて戻っていたKingらと再会します。Brewerは、隊員の服はぼろぼろで、 馬も傷つき、本人の体重は30ポンドほど減ったと、調査行の厳しさを書きとめています。Hoffmannの様態を見る間Brewerは、Olmstedと共にヨセミテに出かけます。 渓谷からはMonoトレイルを使いMt. Danaを目指しましたが、Olmstedはあまり山歩きが得意ではなかったため、馬で行ける隣の山に登り、それをMt. Gibbsと命名しました。Brewerがヨセミテ旅行から帰ってきても、Hoffmannの様態は悪化する一方でした。 そこで4人は、Hoffmannを医者に診せるため、担架を使いマリポサへ山越えし、そこから先はKingとCotterがStockton経由でSan Franciscoへ送り届けました。そして後を追うように、BrewerとGardnerもOlmstedと共にマリポサを去ります。

San Franciscoに戻ったBrewerは、Yale大学から教授職内定の手紙を受け取り、カリフォルニアを離れる決心をしました。4年間に渡るCalifornia Geological Surveyの仕事の間Brewerが廻った距離は、 公共交通機関で4,440マイル、馬で7,564マイル、そして徒歩で3,101マイルの計15,105マイルでした。隊の1864年の活動は、たった3ヶ月半で広大なシエラネバダ山系(ヨセミテの南)の偵察的調査をするもので、時間、予算、人的にもかなり制約されたものでしが、 Kern Riverの水源を確認したこと、Great Western Divide(Kings及びKernの分水嶺)の位置を正しくつかんだこと、シエラネバダに残る氷河活動の跡を確認したこと、幾つもの地点の標高を測量・推定したことなどと、数多くの成果を残しました。


さて、Brewer一行がシエラの調査をしていた6月末、連邦政府はLincoln大統領のサインを得て、ヨセミテ渓谷とマリポサグローブを州の公園として譲渡する法案を通しました。カリフォルニア州では、 年末に議会の開催が予定されており、公園の管理委員会メンバーに選ばれていたWhitneyは、それに間に合わせるべく、急ぎ公園の境界地図や報告書を作成する必要がありました。9月中旬San Franciscoに戻ってきたばかりのKing、Gardner、 そしてCotterらはWhitneyの命を受け、急遽ヨセミテ渓谷へと向かう事になります。測量に残された時間は、冬の嵐が来て山が閉ざされてしまうまでの数ヶ月しかありませんでした。 10月5日、King、Gardner、Cotterらは、マリポサトレイルからヨセミテ渓谷に入り、Blackのホテル傍のキャビンを測量のベースキャンプに定めました。 手伝いとして、マリポサ大隊のFredrick A. Clark、渓谷の住人LongherstとWilmerが加わります。 早速翌日、一行は二頭のミュールとともにBig Oak Flatトレイルを使って渓谷の北側に上り、Monoトレイルを辿ってEl Capitanのすぐ西側の沢(Ribbon Creek)のほとりにキャンプ地を構えます。 この沢の水は、ヨセミテ渓谷最大の落差を誇るRibbon Fallの水源で、当時はホテルを経営するHutchingsが名づけたVirgin's Tearsと呼ばれていました。7日、一行はEl Capitanへ行き、渓谷全般の偵察や、岩壁を覗き込んだりしました。 翌日からはいよいよ測量を開始します。境界は渓谷の淵からほぼ1マイルのところに設定されます。 測量はチェーン測量法を使って一週間ほど続けられ、測量線がBoundary Hillに達したところで三角測量に切り替え、1マイルほど先のYosemite Creekの東側に測点を移します。 同時にキャンプ地もNorth Domeの北西付近にあるメドウに移動し、Indian Rockに達するまで測量が続けられました(Clouds Rest、Mt. Star Kingには上っていません)。Kingはこの間、North DomeからRoyal Archの淵まで下ったり、 Mt. Hoffmann登山、そしてTenaya Lake方面へ探索をしました。Mt. Hoffmannに登った際には、反対側に下り、Yosemite Creekをその水源からヨセミテ滝の落ち口まで辿ります。そしてモレイン跡や、条線、擦痕など、ヨセミテを覆っていた氷河の痕跡を見つけています。

[Boundary HillからYosemite Creek越しに見るNorth Dome、Clouds Rest、Half Domeなど]


北側の測量が終わると、一行はヨセミテ渓谷へと戻ってきました。一日休憩した後、今度はマリポサトレイルを使い、南側へと上り、Meadow Brookにキャンプを設営、同様に渓谷の淵から1マイルほどのところで、境界の測量を続けて行きます。 こちら側でもKingは地学的探索をし、Bridalveil滝の落ち口付近や、Glacier Pointの東側1,000フィートほど下に見える突き出た岩などへも降りています。さまざまな痕跡を調べたKingは、最低でも1,000ft.の厚さの氷河が渓谷に流れ込み、 それらが渓谷の底を覆っていただろうと推測しています。境界測量は一月ほどで終わり、測量隊は11月初旬、ヨセミテ渓谷のキャビンへ戻ってきました。

[Kingらによって調査されたヨセミテ州立公園の境界]


しかしここでKingは、残された時間を使い、Cotterと共に鮫の背びれの形をした山、Mt. Clarkの初登頂を目指すべく、再びマリポサトレイルを上ることになります。 11月5日、二頭のミュールに一週間分の食料と二枚の毛布を積んだKingとCotterは、マリポサトレイルを使い渓谷の南側に上り、Bridalveil Creekの東の支流まで進み、キャンプをします。 翌日はIllilouette谷に下り、モレインを辿り、午後遅くMt. Clark南側のメドウに達しました。

[西から望むMt. Clark]


この頃から天気が下り坂に向かい始めます。翌12日は雲が低く垂れ込め、周辺の山々を包み込み、風が強く吹き始めました。 Kingは天気の回復を待つこととし、この日は周辺で鉱物調査をして過ごすこととしました。夜半9時、突然風がやみ、雪が降り始めます。夜半、毛布がどんどん重くなっていくことを感じつつも、 二人は眠り続け、翌朝目が覚めたとき、やっと1フィート半もの雪が積もっているのに気付きます。もはや登山どころではなく、二人は急ぎ朝食を済ませ、引き返し始めます。雪嵐のなか、往路に描いておいた絵地図とコンパスを頼りに、 マリポサトレイルにたどり着けたのは出発から8時間後でした。 標高も低くなり積雪量は減っていたもの、Inspiration Pointに達した時には、凍てつく雪混じりの烈風が渓谷から吹き上げており、進退窮まってしまいます。凍りついた木の下で1時間近く休んでいると、突然凪が訪れ、 真っ白になったヨセミテ渓谷やハイシエラの山々が目前に出現します。このチャンスを見計らい、夕闇が迫る中、二人はトレイルを下り、心配する仲間たちの待つキャビンへたどり着くことが出来ました。

[Inspiration Point付近から望む渓谷(現在のOld Inspiration Point)]


夜半、一時的に星が見えたものの、早朝にかけて雷雨が通り過ぎます。降雪で渓谷から脱出できなくなることを憂えたCotter、Wilmer、Hydeの三人は、早朝にWawonaへむけ出発します。 一方、King、Gardner、Clarkらは渓谷にとどまり、嵐がもたらした雪と、水と霧が作り出す、渓谷の奇観を見て過ごすことにしました。Merced川の水位は上昇し、キャビンに達するような勢いとなり、ヨセミテ滝は落ちる水で大轟音を発しはじめます。 翌15日、夜半からの冷え込みと、再び始まった積雪を見て、さすがに三人も脱出を決意します。渓谷の底では7-8インチ程度の積雪でしたが、Inspiration Point付近では18インチの深さがありました。 9時間後の午後4時にはWestfallのキャビン(Bridalveil Creek CGの南西)に到着しました。すぐ後には、心配したCotterがWawonaからのトレイルを戻ってきます。 最悪の状況を考えたKingはCotterと共に、雪がちらつき始める中、足跡を辿り、Wawonaへと向かうことにします。道に迷ったり、Cotterが疲れきって倒れるなどの困難がありましたが、深夜2時、どうにか二人はClark’s Ranchに到着します。 Kingのは心配は稀有に終わり、天気は翌日の昼までもち、GardnerとClarkも無事下山して来ました。 午後からは再び嵐が通り過ぎ、17日の朝までにWawona周辺に2ft.の湿った雪を降らせます。一行は重い機材は残し、必要最低限のものだけをミュールに積み、ChowchillaトレイルでMariposaに向かいます。交代で雪を掻き分けて進み、昼過ぎには峠に達します。 反対側の下りには雪も序々に浅くなり、最後は豪雨の中、ところどころ鉄砲水で分断されたトレイルを進んでいくことになります。 機材を積んだミュールが川に落ちておぼれそうになると言うハプニングがあったものの、二日目には天気も回復し、無事にMariposaへ着くことが出来ました。 King、Gardner、Cotterは此処でClarkと分かれ、さらに二日をかけ、ぬかるみとなったセントラルバレーを越え、無事サンフランシスコへと到着、Yosemiteの測量結果を無事Frederick Olmstedに手渡すことが出来ました。 こうして、5月に始まってから足掛け半年にも及んだCalifornia Geological Surveyの1864年の活動は、幕を下ろすことになりました。 彼らの作成した地図は、やがて”Map of the Yosemite Valley from Surveys made by order of the Commissioners to manage the Yosemite Valley and Mariposa Big Tree Grove by C. King and J. T. Gardner, 1865. Drawn by J.T.G”というタイトルで1868年、Whitneyの出版した『The YosemiteBook』に、ヨセミテ最初の本格的地図として添付されることになります。


注釈:
[1] 1860-1864年の間のメンバー:
Professor J. D. Whitney ... State Geologist
Professor W. H. Brewer ... Principle Assistant, 1860-64, in charge of Botanical Department
J. G. Cooper, M.D. ... Zoologist, 1860-64
W. Ashburner ... Assistant in the Department of Economical Geology, 1860-61
C. F. Hoffmann ... Principle Topographical Assistant, 1861-64
V. Wackenreuder ... Topographical Assistant, 1862, 1863
W. M. Gabb ... Palaeontologist, 1862-64
A. Remond ... Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1862, 1863
Clarence King ... Volunteer Assistant in the Geological Field work, 1863-64
J. T. Gardiner ... Volunteer Assistant in the Topographical Field work, 1864
C. Averill ... Clerk, Comissary and Barometrical Observer, 1860-63

[2] 1852年に発見。
[3] Coulterville及びMariposaトレイルは、現在の車道CA120とWawona Rd.は全く別のところを通っていました。
[4] 当時は南北戦争の最中:6月3日、Lee将軍率いる南軍がペンシルベニア州に侵入、やがて7月上旬のGettysburgで敗北を喫する。
[5] Tioga Pass。
[6] Muirは1870年、シエラに氷河が現存する事を発見します。ヨセミテ・シエラの氷河は、形状だけを見れば万年雪渓のようなもので、ヨーロッパでの大氷河を見ている3人にとっては、氷河と考えるに到らなかったと思われます。
[7] Ragged Peak。


資料:
”Up and Down California in 1860-1864: The Journal of William H. Brewer” William H. Brewer
”Geology, vol I. 1865”, J. D. Whitney
”Mountaineering in The Sierra Nevada”, Clarence King 
”King of the 40th Parallel”, James Gregory Moore, Stanford Univ. Press
”Exploring The Highest Sierra” James G. Moore, Stanford Univ. Press
”History of The Sierra Nevada”, Francic P. Farquhar, Univ. of California Press
”Clarence King”, Thurman Wilkins, Univ. of New Mexco Press